コギトのダイナミックな汎夢的モデルについて

『ゼルダの伝説 時のオカリナ』『ムジュラの仮面』の考察

updated: 2016.12.30
『ゼルダの伝説 時のオカリナ』と『ムジュラの仮面』の時間移動の構造

『ゼルダの伝説 時のオカリナ』(1998,任天堂)と『ゼルダの伝説 ムジュラの仮面』(2000,任天堂)とはともに特異な時間構造をもったビデオゲームである。本稿は、この二作の主人公視点の時間経験を順に考察することで、〈夢〉と〈現実〉との関係を明快に説明するモデルを提案する。

前者は、物語全体が「子供時代」「大人時代」という二つのパートからなる。子供時代から大人時代へ不可逆に移行するのではなく、「時の神殿」と呼ばれる場所を経由点に、両方の時代を往復できる。ゲーム内虚構の歴史の進行により子供時代から大人時代に進むようなことはない。すなわち、子供時代から大人時代へ、そしてまた子供時代へ〈移行〉することができる。それぞれの時代はゲーム内虚構の歴史で七年間離れており、登場キャラクターや街のようす、また移動可能な範囲に違いがあり、このギャップを利用して、攻略のために時代の往復を要求する課題も多い。プレイヤーは主人公「リンク」を操作して、両方の時代に一貫する特定の目的を達成する。まず子供時代のリンクから始まるプレイを進めていくと、時代の移行は必要となる。ゲーム内フィクションでは大人時代までの隔絶を「七年間の眠り」と表現するのだが、逆行についてはフィクションの出来事として表現されていない*1。ここで「眠り」という呼称、また大人時代から子供時代へ戻るときに主人公が意識を失うようにムービーで表現されていることから、いずれにしても両時代の往復に際しては、主人公の意識は切断されていると考えてよいだろう。
子供時代から大人時代、また子供時代という往復を経るとき、一回目の子供時代の終点Eと二回目の子供時代の始点Sとは、周囲のキャラクターの言動や主人公のふるまいを鑑みると、歴史的に連続しているように思われる。また、所持するアイテムや、またともに時間を超える妖精*2の言動を鑑みると、時代を何度往復しても、そのあいだで同一性は保たれるように思われる。すなわち、プレイヤーが操作する子供時代の主人公と大人時代の主人公は、それぞれまったく無関係な同一性をもつようなものではない。これは、先述した、時代の往復を必要とする攻略を可能にしている。
さて、子供時代と大人時代は歴史的に連続すると考えてよいならば、子供時代で環境に対して起こした行動は、大人時代に影響する。たとえば、子供時代で大きな石を破壊すると、大人時代にあったそれも消滅する、というようなことだ。所持アイテムにも同様のことが言える。たとえば子供時代の終点で「あきビン」を二つ持っていれば、大人時代の始点で持っている「あきビン」の数も二つだ。しかしここで重大な問題がある。この所持アイテムに関する数の一致は、大人時代から子供時代へ戻るときでも通用するということである。すなわち、大人時代Aでさらに一つ「あきビン」を新たに手に入れてから子供時代Cに移行すると、その子供時代の始点S(C)で持っている「あきビン」の数も一つ増えて三つになる。子供時代が大人時代の七年前であるならば、歴史を戻れば「あきビン」の数も、前回の子供時代の終点時の数である「二つ」に戻らなければ道理がいかない。これは歴史的に考えて因果の方向が逆転しているのではないか。
しかし、ここで「両時代の移行のとき、主人公の意識は途切れる」「因果関係が双方向に成立する。すなわち、子供時代で起こした行動が、移行先の大人時代の始点に影響するし、大人時代で起こした行動が、移行先の子供時代の始点に影響する。そもそも大人時代から子供時代に戻ることができる。これは虚構世界の歴史に即した因果からはうまく説明できない」*3という二点をあわせると、子供時代・大人時代はおたがいに〈夢〉にあたるという仮説が採用できるだろう。すなわち、「時の神殿」で眠りにつく子供(大人)時代の主人公がつかのまに見る夢が、大人(子供)時代の主人公の経験である*4。現実で短い時間に見る夢が、その中では長い持続的内容を持っているというのは、われわれの経験に照らし合わせても、ままあることである。『時のオカリナ』冒頭でも主人公は「目覚めて」登場するのであり、これはこの仮説を補強するような演出であるとも考えられる。
しかし、〈夢〉であると述べるだけでは、因果関係の逆転を説明したことにはならない。そこでさらに、西川アサキの〈スパゲティ・コギト〉概念を参照する*5。ここで西川は、眠りのような意識の途切れのたびに、別の「コギト=我思う我」へ切り替わるようなモデルを提示している。つまり、子供時代のコギトから大人時代のコギトに切り替わり、そして、大人時代のコギトから、また新たな子供時代のコギトへ、戻るのではなく切り替わる。逆も然り。ところで、われわれが〈夢を見た〉というとき、それは「寝てから、起きるまでのあいだの幻想的な経験」を指すのだが、ここで前提されている「寝る前」と「起きた後」のコギトは本当に、必然的に連続していると言えるのだろうか? むしろそうではなく、眠るたびの意識の切り替わった記憶を「A→B→C(今)」として、AとCが十分に似ているときに、相対的に似ていない、つまり繋がっているとは到底思えないBを〈夢〉と呼ぶのだ。つまり、AとCとの関係は、外から判断できない。あくまでCから見て似ているAだけを、現在と連続する過去として錯覚してピックアップしているだけである。もしA、B、Cが全く似ていない場合、Bだけが〈夢〉だとは言えないだろう*6*7*8
さて『時のオカリナ』では、子供時代(Childhood)と大人時代(Adulthood)のC→A→C’→A’→C’’→A’’……という往復は、「それぞれよく似たセリーが交互に現れる」ために、おたがいが〈夢〉になっているとみなせる*9。つまり、主人公は眠りによって時代を往復するたびに、その時代の前回の終点Eのよく似た始点Sに繋がれると思われる。つまり、子供時代の終点E(Ck)から大人時代の始点S(Am)へ移動し、大人時代の終点E(Am)から子供時代の始点S(Cn)へ移動するとき、E(Ck)とS(Cn)はよく似ている、「認められたヴァージョンauthorized versions」であり、この二往復Ck→Am→Cnにおいて大人時代Amは子供時代Ck−Cnの〈夢〉と見なされる。もちろん、逆に子供時代が挟まれる往復にも言える。

『ムジュラの仮面』は、『時のオカリナ』の続編だが、それとは異なる形で独特な時間構造をしている。本作の主人公は『時のオカリナ』の子供時代から連続するものである。主人公は、月がまもなく墜落する地「タルミナ」に迷い込み、滅亡までの三日間を何度も繰り返すことになる。時間を戻すたびに環境はすべてリセットされるが、前作の「あきビン」問題と同様に、因果を逆行するような点が見られる。つまり、時間を何度戻っても、ほとんどのアイテムは初期状態にリセットされない。
本作についても、以上のような時間の不連続性と因果の問題を、〈夢〉概念をもちいて考察する 。ただし、子供時代と大人時代のような「二つの類似セリー」はなく、切断を経てもずっと子供のままであり、その意味で主人公の経験は「夢を見ていない」(*1を参照)のだが、ここで重要なのは「かならず同じ時点、同じ環境の同じ地点」に戻ることであり、この一致はむしろ「類似するセリー」の範囲内として了解されることに与するだろう。なぜならば、類似するセリーが順序的に展開することは、類似そのものに関しては無関係であるからだ*10。それらはただ似ているという点で、始点の時点に関わらず、たがいに現実として地続きcontiguousであると判断されるだろう。
だが本稿はむしろ「タルミナ」が、『時のオカリナ』の子供時代から連続する意識に対する夢であると考える*11。そのために、アンリ・ベルクソン『物質と記憶』の〈記憶〉概念をもとにした〈夢〉の考察を参照する。ベルクソンは〈夢〉とは、過去の記憶のうち、覚醒時に思い出せないような沈殿していたものが、睡眠時の身体知覚への無関心から「高揚」するものと論じている。*12
「タルミナ」には、前作『時のオカリナ』の登場人物と明らかによく似たキャラクターが登場する。『時のオカリナ』では、牧場で働く「マロン」というキャラクターに、子供時代でも大人時代でも会うことができ、彼女のグラフィックも時代に合わせて「成長」している。その二種類のグラフィックは『ムジュラの仮面』の牧場で働く姉妹とあきらかに同一・少なくとも類似のものである。その理由はもちろん開発上の都合や演出とも考えられるが、さらに、彼女らが『時のオカリナ』のときの記憶が、タルミナという〈夢〉のかたちで再構成されているゆえと捉えることができる*13。すなわち「タルミナの三日間」は、そこまでの記憶から構成された「夢」というコギトの一つの類似セリーの雛形であり*14、そのなかで時間をループすることにも不思議はない*15
さてここから、「あきビン」因果問題を解決する。『時のオカリナ』では、「行き帰り」する子供時代どうしは単に類似しているだけで因果的に連続していないのだから、「あきビン」の数が増えても問題がないと考察したが、ここでさらに説得する理由を付加できる。『ムジュラの仮面』では「あきビン」など手に入れたアイテムのほとんどは時間を巻き戻しても保持されているわけだが、タルミナを〈夢〉とみなすとき、ここで「時間を巻き戻す」というのは、ほぼ比喩的なニュアンスしか残っていないのは明らかだ。『時のオカリナ』同様、時間は巻き戻っていない。よく似た「一日目の朝」へ「また切り替わる」だけだ。このとき、「タルミナ」が〈夢〉すなわち記憶から構成されるものである以上は、『時のオカリナ』だけにその記憶のソースを求める必然性はない。二作のあいだの期間はもちろん、またタルミナ内での経験もまた記憶として逐次沈殿すると考えるほうが自然である。つまり、タルミナ=〈夢〉内での主人公の経験が、タルミナ世界=〈夢〉そのものに影響する。これで、「あきビン」の数の保持もまた説明される。あきビンを手に入れたというタルミナ経験Tkに際した記憶が、次の切り替え時の始点であるB(Tm)に影響する*16。ゆえに、タルミナ世界の経験可能性*17はループを繰り返すたびに変移していくのだ。
さかのぼって、『時のオカリナ』での「あきビン」問題にもさらに説明を付加できるだろう。子供時代と大人時代がたがいに夢であるならば、それぞれでの経験が記憶として沈殿し、おたがいがおたがいにとってどのように〈夢〉として構成され、経験されうるかが更新されるため、あきビンの数も経験を反映して変移する。

『時のオカリナ』には、歴史的〈現実〉とはあくまで、そのときどきの〈覚醒時〉の経験と類似する経験記憶をそれぞれ並べたものにすぎず、本来的にはあらゆるコギトは〈汎夢的〉である、というモデルが、二つのセリーの並行から見出しうる。また、『ムジュラの仮面』には、〈夢〉というものの経験可能性が、そのあらゆる〈夢〉内部での経験によって経験可能性を変移・更新されるというモデルが、一つのセリー内でのループから見出しうる。前者はスタティックな構造、後者はダイナミックな構造を表しているのだが、それらをあわせて考察したことで、「そのなかでの経験が、ダイナミックにその経験可能性を変移する」という〈ダイナミックな汎夢的モデルdynamic pan-somnambulistic model〉*18を、われわれの意識にも採用しうる形で提示できるのではないだろうか。われわれは数々の夢を渡り歩きながら、つねにその時点の環境に類似するものを現実とみなし*19、類似しない他者的な夢を、刺繍のように裏打ちしていくのだが、それはあくまで相対的でありながら、かつしかしその経験が、これから渡り歩きうる夢を生成しつづける。われわれは夢を予持する者、「夢を夢見る者」である。

コギトの静的な汎夢的モデルとダイナミックな汎夢的モデル

  1. ユールは、ゲーム内の虚構からは説明できず、ゲームのルールやその慣習からしか説明できないようなゲームの虚構世界を「非整合的な世界(incoherent world)」と呼ぶ。プレイヤーによる虚構世界の想像は自由であり、必ずしもゲームの虚構世界が論理的に整合である必要はないとユールは主張する。
    非整合的な世界をもつゲームでは、虚構世界はその都度現れて消えるものだ。これを時間の観点から検討することで、ひとつのゲームセッションのなかで虚構世界がどのように機能するかを明らかにすることができる。つまり、ひとつのゲームが、虚構世界の想像を促すことでそれを妨げることのあいだをいかに行き来するのかという話だ。
    Jesper Juul,Half-Real,MIT Press,2005(松永伸司訳,『ハーフリアル』 ,ニューゲームズオーダー,2016)
    本稿はユールのこの記述を、〈夢〉という概念をもちいて思弁的に、〈虚構世界内の主人公の意識〉の観点から説明しようとするものであり、取り上げた二つの個別のビデオゲームにたいする分析以上の射程をもつよう考えられている。
  2. 主人公の戦闘や攻略の手助けをするべく、つねにともにいるキャラクター。
  3. ただし、ゲーム内虚構世界がわれわれと同じ因果法則や時間性を持っているとは限らないのではないか。だが、もし特殊な時間構造を持っているのならばそれは虚構世界内のキャラクターからも言及されるはずである。やはりここでは「最小逸脱の原則(principle of minimal departure)」から、われわれの世界とさほど異なる時間構造をしていないと見なすほうが自然だろう。
  4. さながら荘子の「胡蝶の夢」のごとくである。
  5. 西川アサキ『アップロードは哲学の課題になりうるのか?:「AIの意識と人格的同一性」から「汎用性とこの私」へ』(青土社『現代思想』2015年12月号所収)。眠りという「潰れた今」におけるコギトの切断のたびに、複数の「主観言語の時空」すなわち主観意識が、めちゃくちゃな順序で接続している、という概念だ。つまり、線形な時間のうえで意識・無意識のオンオフがあるようなものではなく、オフのたびに連続性がなくなり、非線形で有限な持続どうしがめちゃくちゃにリンクされるというモデルであり、これはわれわれの意識経験についても採用される仮説である。
  6. ただし、どれが「現実」=〈覚醒時〉かは言える。むろん、いままさに起きているCである。むしろ、いままさに起きているCに似ているものだけを「現実」、似ていないものを「夢」と呼ぶ、というのがこの段落の主張である。ところで、現実の過去の記憶ばかりが思いだされて、夢は思い出すのが難しいことが現実と夢の原理的違いである、「真と偽の記憶」であるとみなすのは言葉のトリックだろう。それでは、思い出せない過去の記憶と夢とが混同されてしまうし、そもそも「思い出しやすさ」は程度の違いである。むしろ、記憶のうちよく似たものが、いま起きている覚醒時を手がかりに思い出しやすく、似ていないものほど、細部まで思い出さなくてはならず、ゆえに相対的に思い出しづらいのではないか。ゆえに、「思い出せるものばかりが思い出されて」、われわれの「現実の連続性」は仮構されるとも言える。ここで、現実とは、たんに覚醒時から見て類似するものでしかなく、夢もまた相対的判断の違いでしかない(*3を参照)。これはアンリ・ベルクソン『物質と記憶』の〈想起〉概念をヒントにした考察であり、また本稿後半の『ムジュラの仮面』の考察にもかかわる。
  7. また、BとCがよく似ているとき、「夢を見なかった」と呼ぶ。もちろん、BからCへ直に切り替わったのかもしれないし、BとCのあいだにあったたくさんのコギトがすべて欠落しているのかもしれない。また、「正夢」も説明できる。「A→B→A’→A’’」というコギトの切り替わりにおいて、A,A’,A’’はたがいに類似しているため、A’’からしてそれらが過去であると判断されるが、ここで、A’のコギトはそのなかに「Bは夢である」という判断が含まれながら、A’’にとって過去であると判断されている。それに上書きして、「しかしA’’とBは似ている・ほぼ同一である」ときに正夢に判断されるのだ。逆夢についても同様である。また明晰夢については、「A→A’→B」という状態を判断した場合であり、この判断のためにはおそらくBとA,A’がある程度似ている必要がある(*6参照)。もしそのままBのなかで「寝起き」できるようになったら、もはやBは明晰夢とは呼べなくなるように、現実と夢との相対性は維持される。
  8. またこの「あらわれた意識の類似から連続性を仮構する」というアイデアは〈死〉の概念を考え直すものでもある。本稿の目的を離れるため詳しくは扱わないが、〈死〉というある意識の特殊なタイプの終点は、のちにそれによく似た始点から開始することが想定できないものを指すのではないだろうか。わたしたちは〈夢〉のなかで死にかけることも少なくない。
  9. つまり、現実と夢との相対性において、子供時代と大人時代の「現実感」ないし「有過去感」が拮抗しているということだ。じっさい、われわれが突然「将来の自分」になったと想像してみよう。われわれはそれを夢だと判断する(「明晰夢」*8参照)のが自然だろう。ゲーム内ではそれが「封印」「魔力」などの歴史的文脈で装飾されているのだ。
  10. われわれはしばしば記憶違いをする。三年前の記憶と五年前の記憶が入れ替わり、前者のほうが古い記憶だと思い込んでいる、ということはままあるが、そこにセリー的類似があるかぎり、十分了解されているものである。時間的順序はセリー的類似をはばまない。ただし心理的に、時間のループは狼狽を生むと思われる。それは、繰り返すたびに記憶の区別がつかなくなることで、同一性が脅かされるのではないか、という恐怖から来るものだが、それはループから脱出できないがゆえのものであり、むしろ意識的に「過去にもどってやり直したい」という欲望は、誰しも自然に、むしろ憧憬をもって感じるものだろう。
  11. ただし、この先の記述でタルミナを「夢」とみなすことにはひとつ問題がある。本作では、タルミナへの迷い込みや時間逆行のさいに「眠る」描写はなく、幻想的な時計のイメージとホワイトアウト・ブラックアウトがあるのみだ。だが、われわれの意識は睡眠や失神によってのみ切断されるわけではなく、たんに「呆けている」とき、「今何をしていたかよく思い出せない」ということがあるのは、経験上、想像に難くない。ここでは意識の終点Eが、入眠のようになだらかに現れるのではなく、失神よりも急激に訪れるようなものとみなせる。
  12. 〔…〕しかし、われわれの過去は、現在の行動の必要性によって抑制されているため、ほとんどその全体が隠されたままであるのだとすれば、いわば夢の生活のなかに戻るためにわれわれが有効な行動に関心を持たないすべての場合に、われわれの過去は意識の識閾seuilを飛び越える力を取り戻すだろう。自然のものであれ人工的なものであれ、睡眠はちょうどこの種の無関心を引き起こす。〔…〕ところで、いくつかの夢や夢遊症状態における記憶の「高揚」は、決して珍しくもない観察事実である。消滅させられたと思われていた数々の想起がそのとき驚くほど正確に再び現れる。
    Henri Bergson, Matière et Mémoire,1896(合田正人・松本力訳『物質と記憶』, 筑摩書房,2007)
  13. これは「都市伝説」の域を出ないものだろうか? しかし本稿は*1でのユールの引用のごと、「非整合的な世界をもつゲームの、その都度現れては消える虚構世界を時間の観点から検討する」ことを、ゲーム文化の慣習ばかりで解釈せず、あくまでフィクション内の演出に寄り添いながら、フィクション(内の主人公の経験)として説明できるぶんを拾い上げることを目標にしている。また挙げた二作はあきらかに相互に関連するので、たがいに考察の論拠とすることに問題はないだろう。
  14. 本稿では〈現実〉と〈夢〉は相対的な観念であり(*6を参照)、タルミナの経験は類似セリーという点では相対的に〈覚醒時〉的ともいうべきである。ここでは、ベルクソン的に『時のオカリナ』の記憶を反映させ、また後述するように、タルミナ内での経験もまた記憶としてさらに反映するという特徴を取り上げるために「夢」として考察する。
  15. 類似さえすれば地続きと判定されるのだから、始点にかぎらずどの時点に飛ぼうと問題ではない。つまりループではなくシャッフルでもよい(ゲームとして面白いかは別として)。
  16. 経験が必ずしもそのまま夢のなかで再演されるわけではない。ただし、再演を阻むものこそもちろんなく、むしろ促すものであろう。
  17. ここで「夢をいかに経験できるか」という可能性は、つまり「いかに記憶をイマージュ化(imaginate)できるか」とベルクソン的に言い換えられる。タルミナのループ経験は、自己参照しながらその経験可能性=イマージュ化可能性=想像可能性(imaginatbility)を変移させていき、またこれがゲームプレイの構造となっている。ところで、本稿では〈夢〉概念を、スパゲティ・コギトに示唆を受けた「類似するセリーのネガ」と、ベルクソンによる考察をもとにした二つの考え方で捉えているが、これらはおそらく競合するものではなく、むしろこの「イマージュ化可能性imaginatability」を蝶番に接続しうるものだと思われる。すなわち、分裂した主観意識は、所与でちらばっているのではなく、経験によってつぎつぎに生成されていくものではないだろうか。
  18. 本稿後半は表現上「タルミナ」の範囲を「夢」と呼んでいたが(*14参照)、〈ダイナミックな汎夢的モデル〉と言う以上、あらゆるコギトが〈夢〉であり、類似によって「現実感」ないし「有過去感」がそのたびに仮構されるだけだ。ここで、内部の経験からさらに可能性を生成する夢-コギトの非全体は「オートポイエティック」なものと見なせるかもしれない。ここで非全体というのはクァンタン・メイヤスーが『有限性の後で』で「思考可能なものの(量化可能な)《全体》とは、思考不可能なものである」と述べることと呼応する(Quintin Meillaseux, Après la finitude,2006,千葉雅也・大橋完太郎・星野太訳、人文書院,2016)。
    いっぽうでこの膨大な夢-コギトを、ボルヘスの〈バベルの図書館〉のごとく全体化する考えにのっとれば、ニーチェあるいは九鬼周造的な永劫回帰の時間に結びつける打ち筋も可能だろう。
  19. ここで「類似」と言うとき、デイヴィッド・ルイスが『世界の複数性について』で、複数の世界のたがいの対応者を関係づけるのは、世界のあいだに因果的関係が見出せない以上、〈類似性〉であると語ることに似ている。ルイスは世界どうしのオーバーラップ(部分の共有)する様相実在論を認めない立場を採用するが、それはオーバーラップ説が対応者同士の関係の説明として採用する貫世界的同一性は、個体の可能性と可能世界とが全単射的に対応するために、たとえば「とある鉄道路線が、とある区画を他社から買収できていたことがありえた」というような様相的な言明について、そこで指示されるものが〈買収していた鉄道会社〉と〈買収していない鉄道会社〉との対応者関係と、〈その部分を含む路線〉と〈その部分を含まない路線〉との対応者関係といった、内在的本性の違いなしの二重の対応者関係をもつことを説明できないためである。ルイスはその点で、個体的あるいは個体のペアの単位で対応者関係を許容し、一つの世界のうちでも複数の対応者が存在しうるとしつつ、文脈によってその到達可能性を制限することで、対応者関係に非一貫性を認める立場を支持するが、これは本稿において、〈現実〉を紐付ける類似性が非一貫的でありうる構図と同じである(*6*7*9を参照)。
    また、ルイスは別の世界の生成についてヒュームを参照しながら「組み換え原理」によって生成できるものとするのに似て、本稿はベルクソンを参照しながら〈夢〉が経験の記憶を素材に生成されるものと考えるが、ここでそれら可能世界(とその部分としてある、たがいに対応者でありうる存在者および複数の存在者である可能性)や想像可能性は一元的な順序をもたない。これは*17で言及している、夢-コギトの「非全体性」にかかわる。本稿の「現実と夢の相対性」および〈夢的〉という用語は、ルイスがすべての可能世界に現実とおなじ実在性を認め相対化することを思わせるが、本稿は意識経験・コギトに重きをおいて、類似性による〈現実〉の暫定とダイナミックな生成に注目する点で趣を異にする(David Lewis, On the Plurality of Worlds, 1984, 出口康夫監訳、名古屋大学出版会、2016)。